昭和45年 2月25日 夜の御理解
日田の綾部さんが、よその教会で長年総代の御用を頂いておられるという方達を、親子をお導きしてお参りして参りました。そして、あの綾部さんが言うておられる事が、私はここ合楽にお参りさせて頂いて、お参りをしてくる度に頂くそのご理解がもう本当に今日私がお参りしてくる事を知って、親先生がお話されてあるのだろうかと思うほどに有り難く実感的にその有り難く頂くと。そして又よくは分からんけれども、これは大変な、大変なことだなあ、金光様のご信心とはと言う事がそのおぼろげながら分かってきたていうて、いわれるんですよ。片一方は長年総代まで努めておられる方、その後娘さんの難儀な問題で参って来よったのですけれども。私それを聞かせて頂きながら、本当にあのおかげを受ける人はひらめきが違うなとこう思いました。まあ色々話しました事から聞いてですね、だからその大変な事という事がどういう事か、自分でもはっきりつかめないというような意味の事をいっておりましたけど、これは大変な事だなあと思いますて、御理解を頂きますたびに。と言う事はです、今あの、ご祈念前田中さんがお届けされますように、今日の婦人部会におかげを頂いて、皆さんが熱心に信心体験発表、信心の話しをさせて頂いて、中に、本当にこのおかげを頂くと言う事、そのおかげ、なるほどおかげ頂くと言う事が神様へ対するご無理であり、または、借金になるような事になって、あの世までも借金取りにこられると親先生がおっしゃるから、その借金取りにこられんごたる信心を頂かなんというお話があったというお話が。それを聞いてその田中さんが感じられたんですね、毎日こうして朝晩しげしげとお参りなるけれども、その焦点はお店のことであり、子供達のこと、いっぱいでお参りさせて頂いとったが、「こりゃー私の考えをかえなければいけん、今日ほどそれを感じたことはなかった」と、これは本当に一つ、まー借金にならんような信心をさせてもらわな、おかげをおかげとしていかんと、本当に信心を頂かないけん、徳をうけさせてもろうた信心に、とお届けされるのを聞かせて頂いて、私は思うのです。また、田中さんそれを話すのですよ、「何十年信心しよったっちゃ、田中さんそこに気づかん信者はどのくらいおるか分からんですよ」。本当に御教えに「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」とおっしゃる。言うならば、あなたは目が覚めたのですよ、それが何十年信心しよっても、そこに気づかない、人がどのくらいおるか分からない。だから、そういうご利益信心というかお蔭信心はね、どうしてもごまかしが聞きます。それこそ神様だまくらかしたっちゃよかごたる。はーこげな修行しますけん、こうしますけんでち、願うてからお蔭だけいただいとって、実際実行せんでも、それに対して責められるような事はないけれども、本当の信心が分かりたい、御徳を受ける事に開眼したらですね、その、ごまかす事が馬鹿らしくなってくるのです信心とは。ごまかすと言うと大変御幣があるかもしれませんけれどもです、本当に例えて言うならば、その、「蔭と日なたの心をもつなよ」とおっしゃるが、もう、本当に神様の御神意を受けなければならない、信心とは神様の御神意を受ける事だと、御神徳を受けていくことだと、なるほど、痛い痒いがあって、子供の事を願う事もよかろう、お店の事を願う事もよかろうけれども、願ったことをまかせる、もう御任せしきって私は信心の( ? )頂いていこうという開眼ですね。「今日は素晴らしいあなた、事が分からせて頂いた事ですよ」と今話した事なんですけれども、確かに今天地の開ける音を聞いて目を覚ました様な物を、田中さんのお届けの中から感じさせて頂きました。ね、私は今日綾部さんが大変な事だと、しかも、大変なことが分かるのじゃないか、分かっていくのじゃないかというような何か、御理解を頂くたんびにですね、何かその胸に鼓動を感じるようなものを感じる。だから熱心に参ってきたら、御理解を頂かれて、その、おかげを頂かれます。「こういう御理解を頂きよっておっちゃま、あなたたちは何十年信心してきてどうしたのですか」ちいうてから、高島さんにいいなさったですよ。ですから、本当にそういう身につくようないわばお話を頂いていって、私の生きる生き方、生き方がこれから大変な変動期にあるという意味のことじゃないだろうか、大変な事が分かりそうだ、と言う事はとりもなおさず、今天地の開ける音を聞いて、もう天地の響きというかね、そういうものを何とはなしに遠くに感じておられるような感じです。それを例えば田中さんは、見事にその天地の開ける音を聞かれた今日は。そこに、私は信心の有難さというのはね、本当に、信心が分かりたい、御徳が受けたい、神様の御神意を受ける私にならんならんという所に焦点が置かれるのですから、陰日なたの心なんて持てれるはずがありません。ねけれども、ご利益ご利益、お蔭の時はね、神様のお約束を保護にしてもよかろう、又は人が見よらんならどげなんことでんしたっちゃよかろう、といったようなですねそういう信心にどうしても( ? )ます。ただご利益お蔭というだけの事だけに焦点を置かれた信心は。けれども本気で信心を分かろう、神様の御神意を受けて行かなならんという生き方ですから、蔭もなければ日向もない。むしろ太陽を大事にさせて頂くといったようなね、生活、信心生活させて頂いたら楽しい事だと思うです。そういう大変な事がね、おかげをいただかなんから教えを守るといったようなものじゃないです。ね。本当にそういう生き方が本当だときずかせて頂いての生き方。それが本当の意味での信心生活だと、私は思うのですけれども。本当に「天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と仰るが、いわば目を覚まさせてもらうと言う事はやっぱり、おかげをいただかな出来ん。やはり、チャンスを頂かなければ出来ん。だからそこんところをです、今日は、田中さんはお繰り合わせ頂かれた、そういう大変な事をですね、例えば綾部さんの場合や、もう身近にですね、そういう天地の響きといったようなね、ものを、天地の開ける音と言う音は大変な音なんですよ、いうならば地球が回転しておる、回転音なんかていうのはもう大変な音なんです。大変な音だから、その音の中にあって、その音を音と感じないほどなんです。もうそのね、その音を聞こうというのですからね、それを、ま、綾部さんの話しから、それを何か知らん遠くにその、聞きよんなさる。それが開けた時には大した事になるだろうと、いうような信心の楽しみをもっておられる。今日、( ? )先生と風呂の中で話した事ですけれども、昨日の、大和さんが夫婦でお礼にでてみえました。本当に大変なおかげを頂いて、今度井戸が全然2.3日前から出なくなって、井戸掘りさんにいっちょ、深くしてもらうところで、お願いしておる所が、道具一切全てもってきてから、明日からするちいいよんなさる事が、なんとかかんとか口実つけてから、いかん様にいわれるそうです。それで、自分でいろいろ用意したりなんかして、そうした所が( ? )でらんごとなってしもうた。ほら、もう宅祭もまじかに近づきよるとにというて、ま、一生懸命お願いさせて頂きよりましたが、前の日からおかげでどんどんでるごとなった。ちょっと神様のおかげちゃ、なるほどお湿りを頂きましたからでもございましょうけれども、それだけじゃない、それまでにですね、天地のいわば働きというものが、感じられる。私があちらへお参りさせて頂いてからあの、生神と角の井という御神酒のそれから御理解をさせて頂きましたのですけれども、確かに生神じゃったなあと、かめが水にひたらなならんほどしに、角の井、いわば、井戸の水の事に関してのお恵みの受けられる、という意味での御理解でしたが、なるほどああいう御理解いただいたはずねというてきょうは話したところでした。そして先生、その、向こうが請負うて下さったのが3万円かかるち、深くするとに、それて、ちょうどそれで、今度の宅祭が出来ましたというわれる。なるほどああいう大祭のようなお祭が出来たはずだと私は思わせて頂きました。本当にそのおかげを頂いて私達が( ? )に入ってですたい、もうそういう意味合いでおかげいただいとってすねー、とにかくどれだけつこうてもつこうても、仕えきれないほどしのお水をしかも、( ? )水を頂いておると言う事だけでもありがたいが、やっぱり通る所通らなければいけません。合楽でもさあ大祭というとに、水がこりゃなくならせんじゃろかと、少し水がにごってきたと、さあ神様にお願いすると、いよいよ大祭になるという頃になると清水になり、水の量が大なるというようなお繰り合わせいただいて、それから、だんだんおかげいただいて10何年間の間にまた、新たな井戸が掘られた。今はまた、合楽の水にも負けないような良い質の水がどんどん、上がるようなお繰り合わせを頂いて、合楽に来たらなおさら、もう本当にあまりに、天地の大恩というか、響きが大きいために、その事が、おかげがおかげと感じれないくらいに、今合楽ではおかげをうけておる。これは合楽のことだけではない。これは、水だけのことでもそうなんだ。本当におかげ頂かしてもろうて、ここに、水のお恵み大恩を、分からなければいけませんなと( ? )話した事でした。あんまりふんだんに、それこそ出しっぱなし、使いっぱなし、使わせて頂いて限りなく恵まれておるという事。ね、そういう例えばおかげを頂くにも、一つの段階がある。もう神様一途におすがりし、神様一途にお任せしきっての、私は信心過程があって信心がだんだん深められてくる、分かってくるのじゃないかと、ね、一遍に天地の開ける音、いわば開けてくる音を聞くという事は、出来るはずがない。けれども例えば、生命を頂き御理解を頂いておるとです、天地の大恩が、もう身近に開き聞こえてくるのではないかというような、そのものをです、綾部さんが感じておられたように、、田中さんがそれこそおばあちゃんの、御時代からの御信心ですからねあちらは。もうそれこそ60年にも70年にもなるかもしれません。もう、三井教会始まって以来のご信者さんですからね、あちらの、里のおばあちゃんのもうなくなられましたけれど、そういうたとえば信心のそういう一つの辿らせて頂くところたどってきて、今日合楽にご縁頂いて、だんだん信心のけいこをさせていただいて、有り難いことがだんだん分かってきたが、それは、まあ教えのありがたいことがだんだん分かってきたけれど、まだまだおかげ信心から一歩も出ていなかったという事を今日初めて気が付いた。ね、そこまでにやはり、一つの人間を用意しておられる。私、田中さんの喜びではない。神様の喜びだと今日感じました。まさしく、天地の開ける音を聞いて眼をさました、こりゃーおかげ信心ではいかん、あの世に例えば神様から、えーこれは桂先生のお言葉なんですよ「取次者に対して、取次者が徳を受けておかげをどんどんわたしておけ、このように氏子が借金払いが出来ん時にはあの世までも神がとりにいってやる」と神様がおっしゃったっち。だからその話をおそらくされたんでしょうけれどもです、あの世までも神様が借金とりに来られるようなことじゃでけん。今日を堺に一つ真の信心を分からせてもらおう、本当に神様のご信用を頂くための信心を頂こうと、心の目が覚めた、天地の開ける音を聞いて眼が覚めた、そういう感じでした。
どうぞ